卓レポ過去記事

「世界一への道」長谷川信彦 ―人の3倍練習し、基本の鬼といわれた男―4

2017.04.19

<「世界一への道」>

 親に苦労をかけたくない
 
 全日本選手権大会ジュニアの部でベスト8にすら入れなかった信彦は、2週間ほどを呆然(ぼうぜん)と過ごした。
 その間に信彦は考えていた。
「自分は両親や後藤先生に助けてもらって、これまで卓球をやってくることができたんだ。それなのにこの程度の成績しか残せないなんて、とても申し訳ない。自分にはこのまま大学へ行って卓球をやる資格なんかない。高校を卒業したら社会に出て働こう」
 信彦の頭には、夜遅くまで内職の編み物をする母親の姿が浮かんでいた。
「これ以上両親に苦労をかけられない」
 しかし、今までまともに勉強してこなかった自分が就職できるとしたら、肉体労働関係しかないだろう。そう思った信彦は、体だけは鍛えておこうとトレーニングとランニングを始めた。そんな信彦の心の中には、卓球を続けたいという気持ちがどこかにあったのかもしれない。
 だがある日、ひたすら走り続ける信彦の頭の中にふと1つの思いが浮かんだ。
「自分はこれまで他人の2倍も3倍も努力してきたんだ。ここで卓球をやめたらその努力が無駄になってしまう。これからも一生懸命やれば、俺は絶対に強くなれる。このまま終わりにしたらもったいない」
 信彦の卓球への情熱は、容易に消せるものではなかったのである。
「卓球のためだったらどんなことでも耐えられる、そう両親にも言ったんだ。もう一度、一からやり直そう」
 信彦は再びラケットを持った。再び国体優勝以前と同じように、集中して練習するようになったのだ。
 
 深い反省
 
 翌年の1月中旬、世界選手権リュブリアナ大会に向けての代表選手が集まる合宿が名古屋で行われた。だが、それは信彦には無関係のはずだった。ところが、「長谷川も合宿に来ないか」と全日本代表選手団の監督だった荻村伊智朗から誘いがあったのだった。もちろん信彦は代表選手には選ばれていない。期待されながらもインターハイや全日本選手権大会で早々に負けてしまった信彦を励ますつまりで、荻村は合宿に呼んでくれたのだろう。
 荻村のありがたい誘いに応じて参加した信彦にとって、合宿は驚きの連続だった。何と、いきなりスウェーデン代表のヨハンソン選手やアルセア選手と試合することを命じられたのだった。しかし、敗北を吹っ切って新たな決意で卓球に向かっていた信彦は「よし、これは荻村さんが自分にくれたチャンスだ。自分のすべてを出し切って戦おう」と、思い切って攻めていった。すると、驚いたことに2人に勝ってしまったのだ。
 日本代表選手たちは、木村興治を除いて、その2人には勝てなかった。
 続いて信彦は日本の代表選手とも試合をした。ここでも信彦は、木村以外の選手には負けなかった。代表チームのコーチの中からは「長谷川を代表選手に加えよう」という声まで出た。
 その後、東京で行われた最終合宿にも信彦は呼ばれた。このときは代表選手たちも「長谷川には勝たなくてはいかん」という気持ちがあったのか、さすがに全勝することはできなかったが、信彦にとってはとても良い練習になった。
 さて、この合宿で信彦は選手たちと一緒に、将棋の木村義雄名人の話を聞くことができた。
「普段の努力、そして私生活のすべてが試合に結果として出てくる」
 木村名人は選手たちにそうしたメッセージを話した。
 信彦はこの話を夢中になって聞いていた。
「今日の木村義雄名人の話を一番しっかり聞いていたのは長谷川だった。みんなも長谷川を見習わないといかん」と荻村に褒められたほどだ。
 話を聞きながら、信彦はじっと自分の今までの生活を考えていた。
「自分は国体で優勝した後、一体何をしていたんだ。練習もトレーニングも私生活も、全部楽なことしかしていなかったじゃないか」
 そう深く反省した。
「よし、俺も世界一努力しよう。そしてまずは大学にいる間に、全日本チャンピオンになるんだ」
 そして、深い反省はやがて固い決意へと変わっていったのだった。
「インターハイや全日本で負けたことは、とても勉強になった。自分の限界まで努力しなければいけないことが明確になった。それを理解できたことは、インターハイチャンピオンになるよりもはるかに良かったと思う」
 長谷川は、そう強調する。
 
 大学進学
 
 高校卒業後、信彦は愛知工業大学に進学することが決まっていた。本当は東京の日本大学に進学を希望していたのだが、大恩ある後藤氏に「長谷川は愛工大に行け」と言われたため、従わざるを得なかったのだ。
 入学したとき、愛知工業大学卓球部は創部2年目であり、強い練習相手はいなかった。関東の日本大学や専修大学といった名門校に比べると、練習環境はとても良いとは言えなかった。だが、信彦は「関東の学生には負けたくない。関東の選手以上の練習をしよう」と思い、猛練習をした。
 このときライバルと考えていたのは、全日本ジュニアチャンピオンの河野(青森商業高校→専修大学)、インターハイで敗れている岡田(東山高校→日本大学)らであった。また、全日本チャンピオンになることを目標としていたのだから、当時の日本で最強と言われていた木村興治はもちろん一番のライバルだった。
 信彦は台についての練習時間を10時間、その他のトレーニングを2時間と決めた。当時の『卓球レポート』に社会人である木村の練習時間が紹介されており、「練習が3時間半、トレーニングが40分」と書いてあったことから、その3倍やろうと考えたのだ。
 信彦は、練習のときでも1球たりとも無駄にはしないぞ、と誓った。1球1球足を動かして体全体を使い、心を込めてボールを打つのだ。疲れたときや集中力がなくなったときは、ライバルたちのことを思い出した。
「河野に負けてたまるか。岡田に負けてたまるか。全日本で木村さんに勝って、チャンピオンになるんだ」
 
 2人きりの時間外練習
 
 大学時代を通して長谷川と最もたくさん練習をした選手は、西飯徳康(名古屋商科大学。現愛知工業大学監督)であった。
 最初に2人が出会ったのは昭和40年の東海学生選手権大会。このときの対戦では、西飯がゲームオールで何とか勝利した。そしてその2時間後、驚いたことに頭をつるつるに剃(そ)った信彦が西飯のところにやって来た。
「明日から一緒に練習してもらえないでしょうか」
 坊主頭を下げて信彦はそうお願いしたのだ。
「こちらこそぜひお願いしたい」
 西飯も即答した。
 名古屋商科大学にも強い練習相手がいなかったこともあり、西飯の方としてもこの申し出はありがたかった。
 明くる日から2人の激しい練習が始まった。
 西飯は名古屋商科大学での練習が終わると愛知工業大学に行く。そのころには愛知工業大学での練習時間が終わった信彦が体育館で待っていて、夜の9時ぐらいから2人で練習を始めるのだ。
 このときに最も多くやった練習は、やはりフットワーク練習だ。コート全面にランダムにボールを送ってもらい、それをひたすらオールフォアで返球する。
 そして、きついフットワーク練習が終わるとゲーム練習をやる。この2人のゲームは、40ゲーム以上も連続で、ときには朝まで連続で行われた。
「長谷川君は練習のときから明らかに他の選手とは違っていましたね。いつも集中して、というよりも殺気立ってやっていたと思います。練習中、周りの人はまったく話しかけられませんでした。ゲーム練習をやるときも真剣勝負です。お互い、エッジやサイドの微妙な判定は一歩も譲りませんでした」
 西飯は当時を振り返る。
 また長谷川はこう述懐する。
「夜中にゲームをしているとふっと体の力が抜ける時間帯がある。そのときはボールがよく見え、どんなボールも入るんです」
 2人は毎晩、体力の限界までボールを打ち合ったのだろう。この練習は卒業まで続くことになる。西飯は語る。
「東海学生選手権大会の次の日から2人で練習を始めて、結局それが私の卒業まで続きました。最初のころはゲームをしても私が勝つことの方が多かったですけど、すぐに勝てなくなりました。最後の方は私の方がハンデをもらってゲームをしていましたよ」
 また、長谷川がチャンピオンになった後に西飯がこう話したこともあった。
「私は朝の5時ごろまでやるとクタクタに疲れていまい、毛布をかぶって体育館の床に横になってしまうんです。でも、長谷川君はそれで終わらずに、『俺はちょっと走ってくるから』と言って、夜明けの名古屋の街へランニングに行くのです。今思えば、それが私と彼との大きな差になったのかもしれません」
 信彦は大学に入学してからも、ランニングはとにかくたくさんやった。寮から大学へ行くときにも、スクールバスを途中で降りて大学まで走って行ったりもした。
 そんな信彦のがんばりを目の当たりにし、西飯は信彦を心から応援するようになっていた。また信彦も西飯を尊敬できる友として信頼した。2人の間には、卓球を通じて固い友情が育っていった。
 西飯は語る。
「彼が世界チャンピオンになったときには、自分のことのようにうれしかったですね。私が全日本でランク入りをしたときも、長谷川君は我がことのように喜んでくれましたよ。長谷川君と出会えたことは、私の卓球人生の中で最高の出会い、最高の宝物ですね」
 
 左利きへの苦手意識
 
 さて、目標とする全日本チャンピオンになるために、信彦はどうしても越えなければならない壁があった。それは「左利き」選手である。
 信彦は左利きの選手に弱かった。サービスを持ったときは良かったのだが、レシーブのときが全然だめだった。高校時代にインターハイで敗れた関東商工高校の石井や、東山高校の岡田が左利きだった。
 大学に入ってからずっと練習していた西飯も左利きだったのだが、それでも左利きの選手に対する苦手意識は消えなかった。11月に行われた全日本学生選手権大会の決勝戦でも、隻腕で左手1本でプレーする北村(専修大)に敗れて優勝を逃してしまった。
 そして、信彦が全日本選手権大会で優勝するために一番のライバルと考えていた木村も左利きだったのだ。
 左利きの選手は、バック側への短いサービスと、フォア側への長いサービスとを混ぜて出してくる。信彦はバック前のレシーブが苦手でそこを徹底的に狙われ、ツッツいたボールをバックに攻められて崩れてしまうのだ。
 だが、北村に敗れて試合を反省するうちに、対左利き選手の戦い方が思い浮かんできた。今までレシーブでは、バック前とフォアのロングサービスとを、五分五分の気持ちで待っていた。しかし、相手の出してくるサービスを分析すると、バック前に8割以上の確率で来ることに気がついた。信彦の得意な技術はフォアハンドのドライブで、相手もそれはわかっているのだから、気がついてみればそれは当然のことであった。
 信彦はフォアサイドを捨て、100パーセントバック前にサービスが来るものと思ってレシーブすることにした。バック前のボールに対して、しっかりフォアで回り込んで払って得点することができれば、フォアに来る残り2割を相手に得点されたとしても十分勝てる、と考えたのだ。
 早速、バック前のボールをフォアで回り込んで攻める練習をたくさんやることにした。そして、左利きの選手とゲーム練習をたくさんやることにした。そして、左利きの選手とゲーム練習をするときにその戦術を試すと、非常にうまくいくではないか。しかも、バック前のボールに不安がなくなると、不思議とフォアのボールにもうまく飛びつける。
「よし、これで対左利きの対策はわかった。後はしっかり練習するだけだ」
 
 いざ、全日本
 
 12月、全日本選手権大会で信彦は一般の部に初出場。1年前のジュニアの部では惨敗していたが、そのときと違って直前までしっかりと練習し、心・技・体ともばっちりだった。
「よし、まずはベスト8まで勝ち上がるぞ」
 そう目標を立てて、試合に臨んだ。
 絶好調の信彦は特に苦戦することもなくベスト8に進出した。特に5回戦(ベスト8決定戦)では、ライバルの1人である河野に3-0と勝利。好調さの表れだった。そのまま勢いに乗り、準々決勝、準決勝ともに3-0と圧勝し、ついに決勝戦を迎えた。
 決勝戦の相手は予想通り木村興治。木村は社会人4年目。しかし、その力は学生時代から落ちておらず、6年連続ベスト4(うち2回優勝)という抜群の安定度である(当時は学生の方が全日本での優勝が多かった)。
 信彦は11月の初めに行われた全日本選抜大会では準決勝で木村に負けていた。
「でも、あのときとは違う。左利き対策をしっかりやってきたんだ。今の自分は1カ月前とは違うんだ」
 決勝戦が始まる直前、信彦は対木村作戦を考えた。
「ドライブも、バックも、サービスも全部木村さんの方が格上だ。レシーブも練習したけれどまだ完ぺきとは言えない。なんだ、結局木村さんに勝てる技術なんて1つもないじゃないか」
 信彦は冷静に2人の技術を比べるうちに、自分には勝ち目がないことを悟った。
「でも、いいんだ。尊敬する木村さんとこれから試合をするんだ。自分の持っている技術を100パーセント出し切ろう。そうすれば勝てるかもしれない。今の自分にできることはそれだけだ」
 信彦は謙虚な気持ちで試合に臨んだ。
「相手を尊敬し、その相手に自分の力をすべて出し切る。それが礼儀なんだ。このときはそのことをすごく感じた。だからいい試合をすることができたんだ」
 
 全日本史上最年少チャンピオン
 
 決勝戦が始まった。木村は信彦のドライブを封じようと、なるべく台から離れずに、ショートで左右に揺さぶる作戦をとってきた。信彦はこの作戦にはまってじりじりと点差が離れていき、1ゲーム目は16-20と先にゲームポイントを握られてしまった。
 信彦が「何とかしなくては」と思ったそのとき、木村の顔にホッとした表情が見えた。
「これはチャンスだ。あきらめずに攻めていこう」
 信彦はそう思い、少しくらい厳しいボールも、とにかくフォアで攻めていった。攻めて攻めて、気がつくと22-20と1ゲーム目を先取していた。
 第2ゲームも序盤から同じような気持ちで攻めていった。やはり勢いがあったのか、このゲームも23-21と何とか取ることができた。
 そして第3ゲーム。このゲームも序盤からよく攻め、7-3とリードした。だが、ここで「もしかしたら勝てるかもしれない」という思いが信彦の頭をよぎった。そうなるととたんにミスが怖くなった。今までの攻めの気持ちがどこかに消え、ボールを入れにいくようになってしまった。結局その甘くなったボールを木村に攻められ、16-21でこのゲームを落としてしまった。
 信彦はベンチに戻り猛烈に反省した。
「勝ちを意識したら絶対だめだ。できるだけ無心でやるんだ」
 フォアにボールを集めてバックに強打を打つ作戦を、頭の中でしっかりと確認した。
 第4ゲーム目、信彦は無心で攻めた。しかし、木村も全日本優勝2回と百戦錬磨である。お互い一歩も譲らない先手争いから、強ドライブ対強ドライブ、スマッシュ対ロビングの長いラリー戦になった。1球ごとに観客の大きな歓声と拍手が起こる。このときのラリーは「史上最高のラリー」と報道された。
 そして、20オールから長谷川が1点取り、ついにマッチポイントを迎えた。
「次のサービスは、木村さんのフォア側にナックル性サービスを出そう」
 台上プレーのうまい木村に切れたサービスを出すと、変化のあるツッツキをされ、先に攻撃できなくなると考えたのだ。信彦は思いっ切り切ったふりをして、切らないサービスを出した。さすがに木村もこの場面では、安全に入れよう、と判断したのかツッツいてきた。予想通りに返ってきたそのボールを、信彦は大事に、心を込めてドライブをかけた。そのボールを木村がミスした瞬間、信彦の優勝が決まった。長谷川信彦18歳、史上最年少の全日本チャンピオン誕生である。
 天にも昇る気持ちだった。優勝カップを持ちながら、母のうれしそうな顔が見えた。勝った喜びを、兄たちと一緒に応援に来ていた母にすぐ伝えた。母は「よくやったね。おめでとう」とだけ言って、涙を流していた。
 このときも、信彦の脳裡(のうり)には夜遅くに編み物をする母の姿が浮かんでいた。子どものころからずっと「体が弱いのにすごい母親だ」と思ってきた。
「これでやっと恩返しができた」
 だが、優勝を決めてしばらくたった後、信彦をとてつもない不安がおそった。
「全日本チャンピオンになったということは、自分はこれから日本のエースとして、世界一を目指して世界で戦わなければいけないのか。自分にそれができるんだろうか?世界一になるということは、世界一の練習や、世界一のトレーニングをしなくちゃいけない。それに世界一苦労しなきゃいけないんだ」
 こう考えると、先ほどまでのうれしさはどこかへ行ってしまった。
 
 
(2002年12月号掲載)